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エヴゲーニイ・ザミャーチン『われら』レビュー

今日紹介する本はこちら、『われら』(エヴゲーニイ・ザミャーチン)(集英社文庫・小笠原豊樹/訳)

 

立ち竦む波。すべては洗練される。私は細菌だ。

後のディストピアSF物の源流の一つとして、評される本作。初出は1920年頃。
しかし、当時の社会情勢もあり、本国ロシア(ソ連)では1988年になってようやく出版された。

”「単一国」に統治された世界では、人々は監視下に置かれながら疑問を持たなかった。
だが主人公はある女性と恋に落ち、世界の綻びに気づく。1920年代ロシアのディストピア小説の先駆的名作。
(解説/中島京子)”

-amazon内容紹介より

"エヴゲーニイ・イワーノヴィチ・ザミャーチン(ロシア語:Евге?ний Ива?нович Замя?тин, 1884年2月1日 - 1937年3月10日)
ロシアの作家。ソ連文学界は、文学史からも、彼と代表作『われら』の存在を、忌むべきレーニン批判の反革命作家・小説として完全に抹殺していたがペレストロイカ以降、再評価されるようになった。"

-Wikipediaより

 

物語は作中、「二百年戦争」という呼称で表現される終末的な戦争が起こった後(ポスト・アポカリプス、post-apocalypse、post-apocalyptic)の話として始まる。
生き残った人々は「慈愛の人」と呼ばれる指導者を頂点にして、「緑の壁」というガラスのドームで囲われた中、「単一国」という国家で番号によって統制されている。

 

”いずれは八万六千四百秒全部が「時間律令板」に記載されるだろう”

そこでの生活は「時間律令板」で分単位で完全に管理され、自由恋愛は禁止されている。
生殖活動はクーポンを予約発行してもらい、15分だけ各自の部屋でブラインドを下ろして行う。
「単一国」で暮らす全ての人民が一つの共同体として、全てと連結して、暮らして行く、暮らして行ける社会が築かれていた。

 

”緩慢な甘い痛み、咬まれる痛みが、ますます深まる、ますます強まる。”

主人公であるD503号(個人を指し示す名前というモノは既に無い)はその共同体の中で、数学者として、そして栄誉ある「単一国」宇宙船の建造技師として、不安や不満もなく、完全に体制側の一員として、暮らしており、又その日々の暮らしに心から喜びを感じている。
しかし、そこに突如現れたI303号という女性。この女性との出会いが次第に主人公の思考や行動に影響を及ぼし始める…。

 

”誠実な国家要員の一人としての義務”

この『われら』という小説。内容をざっくり言うと、以前に紹介した『すばらしい新世界』が資本主義的、消費社会(西側)の1つの極とするならば、『1984年』やこの『われら』は共産主義的、社会主義の管理社会の究極を描いたものになる。興味深い事にどちらの極致も不思議と似通ってくる。そして人々を幸福へと導びかんとするのは、宗教ではなく科学。

そんな社会の一員として、集団に所属する事によって得られる喜び。
個としての喜び、幸せを自覚した時に集団から疎外されてしまうという現実。
ここでも繰り返される幸福とは?自由とは?意志とは?という問い。

 

”偉大な、神聖な、正確な、知的な直線こそは、さまざまな線形の中で最も知的な線形である…”

物語の進行は主人公である数学者のD503号の手記という形で進められており、中盤くらいまではその手記の内容が分かりづらい事もあって、正直展開にヤキモキさせられた。

しかし、後半に進んで行くに従い、グイグイと物語に引き込まれていき、ある出来事が起こった際のその場面で描かれる生の力の生々しさと情景の色鮮やかさ、モノクロームとメタリックの無機質の世界との対比には思わず唸った。

又、『1984年』『すばらしい新世界』でも作中、恋愛の描写はされているが、この『われら』という作品の方が、もう少し淫靡で倒錯的な描かれ方がなされている。
故に無機質で情念というモノの無い社会と相まって、凄く生と性の匂い、リアリティが感じられる。
そしてそのリアリティは物語の仕掛けと主人公本人に対する問いかけにも繋がって行く。

その後、物語はクライマックスへ向けて、速度を上げて行き、そして、衝撃のラストへと。
このラストを良しとするかはそれぞれだが、個人的にはここで物語がしっかりと締まったように思えた。

慈愛の人とは?メフィとは一体?魂の在り処とは?そして、人の持つ想像するという力の結末とは?

主人公が苦悩し、翻弄される事になる数式というモノでは表現する事の出来ない愛という感情。
彼の出したその答えとは?

 

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